牧水年譜

明治18年(0歳) 8月24日、宮崎県東臼杵郡坪谷村一番戸(現 宮崎県日向市東郷町坪谷三番地)に若山立蔵、マキの長男として生まれ、繁と命名された。
明治23年(5歳) 2月、医師の父立蔵が隣村西郷村(現 美郷町西郷区)に招かれ、一家と共に同村田代字小川に移る。
明治25年(7歳) 4月、田代尋常小学校に入学したが、秋には一家と共に坪谷に帰り、坪谷尋常小学校(現 坪谷小学校)に転校。
明治29年(11歳) 3月、坪谷尋常小学校卒業。5月、延岡高等小学校に入学。宮崎師範卒業で、優れた文章家であった日吉昇の受け持ちとなり、影響を受ける。
明治31年(13歳) 3月、母、親戚らと金比羅参りと大坂見物に行く、初めての長旅。
明治32年(14歳) 3月、第3学年修業。4学年に進級せず、この春出来たばかりの県立延岡中学(現 延岡高校)に成績優秀で入学、寄宿舎生活。詩歌を深く理解する山崎庚午太郎校長の影響を受ける。
明治34年(16歳) 2月に延岡中学校友会雑誌第一号が出て、牧水も短歌や小品文を発表。また東京発行の雑誌「中学文壇」に投稿。寄宿舎を出て下宿。
明治35年(17歳) 2月、同級の大見達也、大内財三(後の平賀春郊)、直井敬三らと回覧雑誌「曙」を出す。また、9月には短歌研究のために野虹会を起こし、同級生以外の小野葉桜らも加わる。11月、阿蘇登山の修学旅行。この年、宮崎の「日州独立新聞」や東京の文芸雑誌「新声」などに盛んに投稿。
明治36年(18歳) 4月、第5学年に進む。5月、校友会雑誌部部長となる。新任の英語教師柳田友麿は牧水の詩才を認め、文学に専念することを勧めた。この秋頃から牧水の号を使い始める。
明治37年(19歳) 卒業後の志望について悩むが、3月に入り早稲田大学英文科入学を決意。同月末、延岡中学を卒業。4月、一旦家に帰った後、上京。早稲田大学文学科高等予科に入学した。6月、教室で同じ九州出身の北原白秋と知りあう。
明治39年(21歳) 英文科の同級生らと回覧雑誌「北斗」を発行。6月末に帰省。日向の海岸を日高秀子らと歩いたりした。故郷の家は父が財産を失くし、母は病床にあった。牧水自身もしばらく病床に臥せったが、9月中旬に上京。
明治40年(22歳) 春頃、園田小枝子との交際が始まる。6月下旬、帰省の途につく。岡山、広島など中国地方を旅行し、7月中旬に坪谷の家に帰ったが、数日後には県南の青島、油津、都井に旅行。8月末に上京。10月頃には、牧水は東京に永住し、文学者になることを本気で決心する。一方、小枝子との恋愛は熱烈に進行。11月、日高秀子の死を悲しむ。12月の終わりから小枝子と千葉県の根本海岸に滞在。
明治41年(23歳) 4月、小枝子と百草園に泊まる。7月5日、早稲田大学文学部英文学科を卒業。その直後に第一歌集『海の声』を出版。同月下旬から土岐善麿と軽井沢に遊び、それから一人碓氷峠を越えて帰京。9月上旬、大学卒業後初めて帰省、同月末に上京。この頃、文学雑誌の発行を計画。12月末には小枝子を迎えるための家を用意。
明治42年(24歳) 1月下旬から千葉の布良の海岸に遊ぶ。結婚問題も雑誌創刊も行きづまる。6月、小枝子と前年に遊んだ百草園に一人行く。7月から年末まで新聞社に勤務。
明治43年(25歳) 1月、第二歌集『独り歌へる』を出版。3月、牧水編集の詩歌雑誌「創作」発刊。4月、第三歌集『別離』を出版して好評を博し、注目歌人となる。しかし、小枝子との問題が解決できず、苦悩の日日が続く。9月から11月まで、山梨、長野などへの長い旅に出る。
明治44年(26歳) 春頃、五年に及んだ小枝子との問題が彼女の離京によって終わりを見た。3月、故郷から母の重病を 知らせて来たが、東京にとどまる。夏頃、初めて太田喜志子に会う。9月、第四歌集『路上』を出版。その後、相模への旅に出る。
明治45年(27歳)
大正元年
3月、長野へ旅行し、太田喜志子に求婚。同月、『牧水歌話』を出版。4月13日、友人石川啄木の死に立ち会う。5月5日、上京して来た喜志子と結婚。同月末、牧水は三浦半島に旅行。7月20日、故郷の父危篤の電報を受け取り、25日に帰郷。9月、第五歌集『死か芸術か』を出版。故郷にとどまるか東京に出て行くかを激しく苦悶する。11月14日、父立蔵死亡。
大正2年(28歳) 1月初めより2月初めにかけて、九州沿岸を旅行。2月下旬、母より上京の許可。3月中旬、美々津の海岸に小野葉桜と遊ぶ。4月24日、長野県の妻の実家で長男が生まれ、旅人と名づける。5月中旬、出郷。6月、東京で妻子との家庭生活が始まる。9月、第6歌集『みなかみ』を出版。
大正3年(29歳) 4月、第七歌集『秋風の歌』を出版。
大正4年(30歳) 3月、病気の妻のため、神奈川県三浦郡に転居。10月、第八歌集『砂丘』を出版。11月27日、長女みさき誕生。
大正5年(31歳) 3月中旬、宮城、岩手、青森、秋田、福島の東北各県の一ヵ月半の旅に出る。6月、第九歌集『朝の歌』、散文集『旅とふる郷』を出版。12月、三浦郡から東京に引き上げる。
大正6年(32歳) 2月、『和歌講話』を出版。4月中旬、故郷の老母が上京し約一ヵ月滞在。8月、秋田、酒田、新潟、長野、松本に遊び、初めて妻の実家を訪ねる。同月、妻喜志子との合著の第十歌集『白梅集』を出版。
大正7年(33歳) 4月22日、次女真木子誕生。5月、第十二2歌集『渓谷集』を出版。同月、京都に遊び、比叡山上の山寺に籠り、更に大阪、奈良、和歌山を経て、熊野勝浦に行き、那智に遊び、鳥羽、伊勢などを経て、二ヵ月ぶりに帰京。7月、第十一歌集『さびしき樹木』、散文集『海より山より』を出版。
大正8年(34歳) 3月、浅間温泉に遊ぶ。9月、紀行文『比叡と熊野』を出版。11月、長野県星野温泉などに遊ぶ。
大正9年(35歳) 2月、天城を越え、湯ヶ島温泉に遊ぶ。5月、群馬、長野、岐阜、愛知の各県を旅する。8月、静岡 県沼津の上香貫に転居。
大正10年(36歳) 3月、第十三歌集『くろ土』を出版。同月、伊豆湯ヶ島温泉に遊ぶ。4月26日、次男富士人誕生。7月、紀行文集『静かなる旅をゆきつつ』を出版。9月から10月、長野県の白骨温泉に滞在、それから上高地に出て、さらに飛騨、高山、木曽に遊ぶ。
大正11年(37歳) 3月から4月、伊豆湯ヶ島温泉に滞在し、山桜の歌を多く作る。12月、『短歌作法』を出版。
大正12年(38歳) 5月、第十四歌集『山桜の歌』を出版。8月、家族と共に西伊豆海岸の古宇に滞在。10月から11月、御殿場から籠坂峠を越えて山梨県に入り、八ヶ嶽山麓の高原を経て長野県に入り、千曲川上流に遊び、さらに秩父方面に行く。
大正13年(39歳) 3月、長男旅人を伴い、九州各地を旅行して、坪谷に帰る。4月12日、父の十三回忌法要を営み、16日、母を伴って故郷を発ち、沼津に帰る。7月、紀行文集『みなかみ紀行』を出版。8月、上香貫から千本浜に転居。9月、沼津で第一回の短冊半折揮毫頒布の会を催す。
大正14年(40歳) 2月、随筆集『樹木とその葉』を出版。各地で揮毫会を催す。10月、沼津市市道町の新居が落成し、転居。12月、九州各地を旅行の後、都農町に長姉を訪ね、老母と二人の姉を伴って別府温泉に遊ぶ。
大正15年(41歳)
昭和元年
5月、「詩歌時代」を創刊。しかし、間もなく資金不足のため廃刊。8月、千本松原伐採反対の論陣を張る。
昭和2年(42歳) 5月、妻喜志子同伴で朝鮮方面揮毫旅行に行く。7月、朝鮮からの帰りに九州を旅行し、坪谷に帰る。老母を見舞い、父の墓参をする。同月末に沼津に帰ったが、健康のすぐれぬ状態が続く。
昭和3年(43歳) 9月初旬から病床に臥し、13日には急性腸胃炎兼肝臓硬変症で医師から重態の宣言。17日、沼津の自宅で永眠。法名は古松院仙誉牧水居士。
昭和13年 9月、生前まとめられていた遺歌集『黒松』が出版された。