高森文夫

高森文夫は、明治43年1月20日に高森家の長男として生まれました。裕福な家庭に育った高森は、幼少より文学に興味を持ち、特にロシア文学を愛好します。
上京して高校に進学した高森は、詩壇の雄、日夏耿之介の門下生として次々と作品を発表していきます。そして下宿先に現れた中原中也との劇的な出会い。中也のまさしく親友として、短くも熱い時間を過ごしてゆきます。
大学卒業後は、教員になるも、退職して満州へ渡り、映画製作に携わりつつ精力的に作品を発表します。しかし時代は戦争の渦の中へ。応召され、終戦後はシベリアでの苦役に就くことになります。

 帰還後は延岡市の教育長や東郷町長を務めるなど、行政の場に身をおく一方、詩集発刊や同人誌への寄稿をつづけ、詩人としての魂を持ち続けました。
高森文夫の詩は世俗に染まることなく、抒情的で穏やか。山紫水明の東郷町に生まれ育ち、そして中也が「仔熊」と呼んだ高森そのままをすくい取ることができます。

年表

明治43年(0歳) 1月20日、高森一郎、セツの長男として、現日向市東郷町山陰150番地に生まれる。
大正5年(6歳) 4月、東郷村山陰尋常小学校に入学。
大正11年(12歳) 4月、旧制県立延岡中学校に入学、下宿生活をはじめる。3年の頃までロシア文学に熱中、なかでもアントン・チェホフを愛読。
昭和2年(17歳) 3月、延岡中学校卒業。卒業後、受験勉強のため上京。日夏耿之介主宰の黄眠詩塾に入門する。
昭和3年(18歳) 11月、日夏耿之介、堀口大学、西条八十合同編集の雑誌「パンテオン」に詩「郷愁」を発表(初の作品活字化)。
昭和4年(19歳) 4月、私立成城高等学校に入学。
10月、日夏耿之介監修誌「遊牧記」に詩「薄暮心」を発表。
昭和6年(21歳) 1月、吉田秀和と同居をはじめる。
12月、吉田秀和のフランス語の家庭教師であった中原中也を知る。中也から愛用の聖書を与えられる。
昭和7年(22歳) 4月、東京大学仏文科進学。
8月6日、中也が帰省中の高森を訪問。28日、中也が北千束の高森の伯母・淵江千代子方2階に引っ越し、高森と弟淳夫と同宿する。
昭和8年(23歳) 春、本郷にて高橋新吉、石川道雄、中原中也、木本秀夫らと同人誌「半仙戯」の創刊打ち合わせ。
5月、石川道雄編集「半仙戯」が創刊。同人として参加し、毎号作品を発表。
昭和9年(24歳) 4月、中野新地の長屋に引っ越し。野田真吉と共同生活を始める。
6~7月、帰省中の高森を中原中也が訪問。
9月、中也とともに『山羊の歌』の題字と装幀の依頼のため高村光太郎を訪問。
12月10日、中也の第一詩集『山羊の歌』が出来上がる。
昭和10年(25歳) 1月中旬、上京の途中、山口に立ち寄り中原中也宅に三泊する。
3月、東京大学卒業。
4月下旬、弟淳夫が再上京、中也と同居を始める。
7月、中也来訪、3~4日滞在する。
夏、父に離れを新築してもらい、その二階を居とする。
昭和11年(26歳) 4月、弟通夫が受験勉強のため上京。その監督を兼ねて再び上京する。
7月上旬、弟淳夫が中也のもとを去り、その後帰郷。
10月、県立延岡中学校の教授嘱託(英語)となる。
昭和12年(27歳) 6月25日、第一詩集『浚渫船』(序文:日夏耿之介)を出版。
7月、中原中也が「四季」第29号に「詩集 浚渫船」と題して紹介文を発表。
10月22日、中也、鎌倉にて没(30歳)
昭和13年(28歳) 3月、卒業旅行の引率で朝鮮・満州の主要都市を歴訪。
11月、日夏耿之介の推薦で「中央公論」11月号に詩「一つの季節」を掲載。
12月、弟淳夫が結婚。
昭和14年(29歳) 3月、延岡中学校を辞職し帰郷。
9月6日、宮崎市の中村秀と結婚。当日、中也からの来簡を携え、夫人同伴で満州に渡る。
10月、新京の満州映画協会に入社。
昭和16年(31歳) 3月、丸山薫編集『四季詩集』刊行、作品5篇が収録される。
7月、第2回中原中也賞を杉山平一とともに受賞。
8月、長女蕗子誕生。
昭和19年(34歳) 3月21日、新京にて現地応召、北満虎林の満州第930部隊に入隊。形見代わりに詩集『泡沫集』を編み少数の友人に配る。
この年、長男朔夫誕生。
昭和20年(35歳) 8月、終戦とともにシベリアへ送られ、ハバロフスク等の収容所で労役に従事。17日、朔夫が引き上げの途中平壌で没、その地に葬る。
昭和24年(39歳) 12月、ナホトカから舞鶴を経て帰還。
昭和25年(40歳) 2月、詩集出版を企画、上京して序文を師日夏耿之介に依頼する。
9月、母校東郷小学校の校歌作詞を担当。以後、県内各地の小中高校の校歌作詞を依頼される。
12月31日、次女麦子誕生。。
昭和26年(41歳) 4月、東郷小学校PTA会長に就任。
10月、三好達治編集「日本現代詩大系」第9巻に未刊詩集『この丘よりきて』から「嫌悪の歌」「石の歌」などが収録。
昭和27年(42歳) 9月10日、牧夫誕生。この頃、渡辺修三との交友が始まる。
11月1日、東郷村教育委員長に就任。
昭和28年(43歳) 丸山薫他編纂の『日本詩人全集』第8巻、昭和篇(3)に、未発表の「郷愁」「蓼の花」「ねがひ」の3篇と、前年「日向日々」新聞発表の「昨日の空」収録。
昭和30年(45歳) 5月、エッセイ「忘れえぬ人/過ぎし夏の日の事ども 中原中也」が17日付「朝日新聞」小倉版に掲載。
昭和34年(49歳) 10月1日、延岡市教育委員会社会教育課長に就任。延岡での単身赴任生活を始める。
昭和36年(51歳) 3月、満州時代の知人森繁久弥が公演のため来延、旧交を温める。
昭和37年(52歳) 3月15日、楽譜「惜春」(作曲伊藤宣二)が高森通夫より刊行。
昭和39年(54歳) 10月1日、延岡市教育長に就任。
昭和41年(56歳) 2月、免許を取って初めての運転で、野田宇太郎、渡辺修三とともに高千穂峡に赴く。
3月、弟通夫の主宰誌「一樹」2号に詩「冬」を発表。
昭和43年(58歳) 2月、第2詩集『昨日の空』(序文:日夏耿之介)を出版。
8月24日、この日開催された四季同人会において同人に推挙される。
10月1日、東郷村教育長に就任。
昭和44年(59歳) 2月21日、父為市が没(80歳)。
昭和46年(61歳) 6月、「四季」第9号に詩「善光寺」「姥捨」を発表。13日、日夏耿之介81歳で没。
昭和49年(64歳) この年、「牧水かるた」が完成。塩月儀市、大悟法利雄、若山旅人らとともに選歌に携わる。
昭和53年(68歳) 9月9日、渡辺修三が没。
10月、長男牧夫の結婚披露宴のため松山へ赴き、帰路山口の中原思郎宅を訪問、中也の墓に詣でる。
昭和55年(70歳) 2月、エッセイ「ある歳末の記憶(中原中也のこと)」を発表。
昭和58年(73歳) 9月、延岡高等学校の牧水忌で「牧水文学の形成」と題して講演。
昭和60年(75歳) 8月11日、東郷町長に就任。
9月、宮崎日日新聞にエッセイ「満州の空の下で」を寄稿。
昭和63年(78歳) 12月、野田真吉の『中原中也 わが青春の漂泊』が刊行、若き日の中也とのエピソードが紹介される。
平成1年(79歳) 6月4日、延岡の若き詩友本多利通が没。
8月、東郷町長を退任。
平成2年(80歳) 6月、「赤道」別冊(本多利通追悼号)に追悼文「痛恨、本多君」を寄稿。
10月10日、新詩集『一つの季節』等を収めた集成全詩集『舷灯』を出版。
平成3年(81歳) 3月、宮崎日日新聞社より詩集『舷灯』に対して第1回宮日出版文化賞が贈られる。
平成6年(84歳) 5月1日、弟淳夫、南郷村の自宅において80歳にて没。
平成7年(85歳) 7月3日、中原中也記念館長の福田百合子(当時)が来訪。この日、中也より献呈された『山羊の歌』を記念館に寄贈。また中也詩碑建立の構想を語る。
平成10年(88歳) 6月2日、心筋梗塞のため自宅にて没。法名「叡光院獄桜徳蓮大居士」。県内各紙詩に追悼文が掲載される。